大化から令和
どうも、生真面目で仕方ない、株式会社プラップル
コピーライターで、ソコキコ™オフィシャルトレー
ナー
の佐藤秀治です。

テレビやラジオからは連日、令和初の〇〇」とい
う言葉が何度も聞こえてきて、食傷気味ではありま
すが、日本中何となくお祝いムードに包まれている
のは何よりです。

でも、天皇制って、なぜ今日まで続いているのか、
はっきり説明できる方っています?

私は、説明できません。

歴史はそれなりに好きで、映画に小説・マンガ・
ドラマと結構楽しんでいますが、本格的に歴史を
学んだことはありません。

だから、まぁ素人の素朴な疑問に過ぎないんです
が、何で天皇制がずーっと続いているのかな、と。

不思議に思いません?

鎌倉幕府では、源頼朝が権力者でしたが、その上
に朝廷がありました。頼朝が超家庭から任じられ
た位は、右近衛大将(うこんえのだいしょう)

徳川幕府でも、家康は朝廷から初代 征夷大将軍
を任命されています。

なぜ、戦乱を勝ち抜いて覇権を唱えた人たちが
最高権力者とならないのか。

これ、結構不思議ですよね。

昨日の日本経済新聞の記事
イチから分かる天皇の歴史 古代~現代まで
でも、その辺は軽くスルーしています。

■古代の天皇、実在めぐり論争続く

「日本書紀」などに記載があり、初代と伝えられるのが神武天皇。だが、2世紀ごろまでは神話の域を出ない。古代の天皇については戦後、実在性や在位期間について論争が続いている。

大王(おおきみ)の時代を経た7世紀、645年の大化の改新で本格的な中央集権国家の建設が始まった。初めて「天皇」を自称したのは天武天皇とする説が有力だ。

平安時代に入ると天皇に代わって貴族が実権を握り、摂関政治の時代となる。鎌倉時代以降は武家が政治を支配したが、天皇が歴史から排除されることはなく名目上の統治者として存続した。

明治政府は大日本帝国憲法で天皇を主権者に位置づけた。太平洋戦争の敗戦後、日本国憲法は政治的権能を否定し、天皇は「国民統合の象徴」となった。

(日本経済新聞:「イチから分かる天皇の歴史 古代~現代まで」2019/5/2 2:00 より抜粋引用)

で、この日本経済新聞の記事では、神話の時代か
今日に至る(神武天皇~)までの126代の名を
記した年表
が掲載されています。

神話の時代の天皇(仁徳天皇以前)については
実在したかどうか議論が続いていますし、仁徳
天皇陵についても、本当に仁徳天皇陵であるか
どうかは立証されていません。

発掘調査が出来ずにいますからね。このままで
は永遠に分からないのでは…。

しかし、これだけ時代が移り変わる中で、天皇
の権威は温存され続けたわけです。

『こんなに変わった歴史教科書』
山本博文ほか著(新潮文庫)

という本を読むと、こんな話が載っています。

「平成」教科書の古墳時代の記述は次のように始まっている。
 

「3世紀後半になると、奈良盆地を中心とする地域に強力な勢力(大和政権)が生まれ、前方後円墳をはじめとする大きな墓(古墳)がつくられるようになりました」

同じ時代について、「昭和」教科書の記述はこうである。
 

「皇室の祖先は、山と地方を本拠として、おそくとも4世紀の中ごろまでには(中略)大和朝廷を開いたと考えられる」

(中略)
 天皇号は早くても」推古朝(6世紀末~7世紀初)に、有力な説としては7世紀末の天武朝に成立したと考えられており、それ以前に天皇(大王)を中心とする集権的な国家は完成していなかった。したがって、4~5世紀の大王を中心とした政治連合体を示す語としては、「政権」の方が適切と考えられるのである。

 『こんなに変わった歴史教科書』新潮文庫 40~42Pより抜粋引用

これ、昭和の教科書で育った世代としては結構
インパクトのある変更だなぁと思いました。

だって、神話の時代からずーっと天皇が国家を
束ねていたのかというイメージも薄っすらあっ
たんですが、そうじゃないんですもの。

昔の権力者にとっての天皇って、どういうもの
だったんでしょうね。

山本博文氏の別の著書『歴史の勉強法 確かな
教養を手に入れる』(PHP新書)には、こうい
う話が載っています。

なぜ幕府に朝廷が必要なのか

 これはかなり重要な問題です。揚げ足取りのようですが、『げんきな日本論』で、大澤氏は橋爪氏の発言を。幕府が開かれたことで、「天皇がもはや主君ではない状態」だと解釈しています。
 (中略)
 これは面白い指摘だと思いますが、しかし、頼朝はあくまで後白河法皇を守る武士としての立場を踏み外したことはありません。もし、そんなことをすれば、自分が武家の棟梁であるということの正当性を失ってしまうからです。
 こうした国家体制は、中世を通じて続きます。平安時代の摂関政治のように、武士が貴族の使用人(これが「侍」の語源です)だった状態を脱し、朝廷と幕府が中世国家の重要な構成要素になりますが、それは両者が対抗関係にあって、均衡を維持しているということではありません。朝廷と幕府の併存を、両者ともに維持しようとしていたのです。
 (中略)
 幕府の正当性を保証するものが、朝廷だったからです。
 日本史を資料に基づいて見ていない人は、当時の人々の感覚がわからないので。「なぜ天皇制は続いたのか」という問いを立てることが好きなようです。大澤氏も、「(藤原氏に)そんなに権力があるなら、なぜ天皇を倒して、藤原王朝をつくらないのか」と言っていますが、摂関政治というのは、天皇の外戚であることが摂関の権力の源泉であり、天皇を離れて自立できるようなものではありません。この時代は、天皇と摂関が対立しているわけではなく、摂関は天皇の保護者として天皇の政治を代行しているのです。

 『歴史の勉強法 確かな教養を手に入れる』(PHP新書)34~35Pより抜粋引用

幕府の正当性を保証するものが、朝廷

武力で国を統一しても、大勢が納得する権威
にはならないんでしょうね。

あーなるほどなぁ、と思うと同時に、徳川幕
府も明治維新も、朝廷の権威によって国を治
めていたことを考えると、本当にこの国には、
革命が起きたことがないんだなぁと。

なぜ朝廷が権威の裏付けになるのか、
ということを深く論じないからこそ
権威として、より根強く温存されて
きたようにも思います。

でも、今、私たちが上皇様に敬意と親愛の念
を抱けるのは、上皇様ご自身が、戦争の悲劇
と天皇家としての責任などにも向き合い、

象徴天皇とは何か?

象徴天皇の役割とは何か?

ということを、真摯に考えられ、そしてご自
身が考えられた「象徴天皇」像を実践するべ
く行動され続けてきたから
ですよね。

上皇様ご自身が、
天皇制というものに向き合って、
変化を生み出されたのです。

災害があれば、避難所を慰問され、体育館に
敷かれたブルーシートの前に跪かれて、座っ
ている(ご高齢の)被災者と目線を合わせて
語り掛けられる姿など、過去にはない話です。

そう思うと、上皇様は

自分がすべきこと(責務)
自分にできること(強み)
自分が願うこと(展望)を
自分から行動に移すべき

という、人としての原理原則を私たちに堂々
と示していただいていたのかな、とも思いま
す。まさに国民の手本になられていたのだな
と、改めて敬意が湧いてきます。

令和の時代。

私たちも常に考えて、強みを活かして、やり
たいこと、やるべきこと、できることを、き
ちんと行動に移していかなければならないな
と思いを新たにした次第です。

  

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