シリーズ投稿 6回目になりますが、
まだまだ書きたいことがいっぱいあります。

以前、「日本人はなぜ質問しないのか」というエントリーでも
書きましたが、なーんでか皆さん、質問しないですよね。

質問は、“相手へのプレゼント”なんですけど、
そんな風に受け止めている人が少ないからなんでしょう。
もったいない話です。

さらに言えば、
「質問する」っていうことは「自分と違う存在」との
誠意ある対話を始めるための、重要な一歩でもあるんです。

それなのに某有名大学院でも、あんなに質問しない。
以前のエントリーに書いたのとは別のイベントを聴講した時
も、講師の先生が話したこととは関係のない、何だか良く
分からない質問ばかりしていたのが印象に残っています。

「何だか良く分からない質問」とは、どういうことか?

たとえばこういうことです。

座禅を教える講師
「座禅に関する説明は以上です。何か質問はありますか?」
質問者A
「私は、鍼灸院を営んでいまして、毎月非常に多くのお客様が
いらしています。
当院では、座禅はしていないのですが、お客様は皆さん、
リラックスされています。
それでも、さらに心を平穏に保つのに、座禅が必要だとした
時に、それを信じていないお客様に、どう説明すればいいで
しょうか?」

これ、質問になっていると思います?

締めくくりだけ、質問のように見せていますが、
その実、質問になっていないんですよ。

ただのマウンティングです。

この構造を少し解説します。

質問者はまず、自己紹介を行いますが、「毎月非常に多くの
お客様」という風に、自分の成功をアピールしています。
その「成功者である自分」が座禅をしていないし、
お客様にもさせていない、と講師との間に線引きしています。
その上で「座禅しなくてもリラックスできる」と圧迫し、
「信じていないお客様に、どう説明すればいいか」と、
思考そのものを講師に依存しています。

質問でもなんでもありません。

某大学院の講演で耳にした「質問」は、この例文ほど酷くありま
せんでしたが、
 「自己紹介」=自己優位アピール
 「線引き」 =講師と自分の違いを言い立てる
 「圧迫と依存」=プライドを満たしながら、相手に依存する
↑ こういう ↑ 構図は、まったく同じでした。

自己紹介エントリーにも書きましたが、
私自身、結構心の傷を抱えていますので、
こういう “人の気持ちが垣間見える構図” には敏感なんです。

アメリカから来られていた講師の方は、
「あなたはどう思いますか? あなたの思う通りにすれば
いいと思いますよ」
という風に、キレイに回答されていました。

さすがだな、と思って聞いていました。

なぜこんな「良く分からない質問」になってしまうのか?

多分
 自分は、あなたの話を
 ちゃんと理解している

というポーズをとりたいからだと思います。

以前のエントリーに書いた下記の理由につながりますが、
普通に質問すると「そんなことも知らないの?」と思われるのが
怖いんですよね、普通に。

    ■日本人が質問しない主な理由

  1. 「そんなこと知らないの?」と思われるのが恥ずかしい
  2. 「質問」と「ダメ出し」を混同している
  3. 話をすぐに理解できない自分が悪いと思っている

何というか、日本の初等教育の呪いなんじゃないかと
思う時もあります。

教室で質問するのは、「分からない子」じゃないですか。

先生は黒板に何やら書いて、こう聞きます。
「分からない人がいたら、手を挙げて!」と。

これは、手を挙げるのは恥ずかしいですよね。

勇気を出して手を挙げたら、
「何だ、こんなことも分からないのか」とくる。

まぁ、上記のやりとりは私の妄想ですが、
現実に、似たようなことが多々ありませんか?

学校でも、職場でも。

だからバカだと思われたくない呪縛に囚われるんです。

話す側の傲慢。聞く側の劣等感

ここにはいろんな誤解があります。

まず、教えている側の人間が
「すべてちゃんと教えているから、分からない方が悪い」
という誤解。

あるいは
「説明した人間の言葉を、しっかり聞けば分かるはずだ」
という傲慢。

加えて、
「目上の人間が話をしてあげたのに、その話の内容が不足
していることを、質問で指摘することは、恥をかかせること」
になるという、狭量なプライドがあります。

このプライド。

大日本帝国陸軍/海軍の話を読んでいると、そこかしこに
溢れています。というか、こればかり。

この呪縛は、いまだ日本に根強いです。

最近明るみに出てきたスポーツ界のパワハラなどの不祥事も
この呪縛から派生している1つだと思います。

何より、最大の誤解は、話す側も聞く側も、
「人はみんな同じ」という思い込みを
持っていることだと思います。

日本の同調圧力の強さです。

個人の劣等感をより強く育む文化です。

たとえば、教室や職場で、自分の理解が追い付かない時、
あなたはどう考えますか?

A.
「自分だけが分からないだけで、きっと、みんな分かっている。
今質問したら、自分だけ知らないことが分かってしまう」

B.
「何言っているのか全然分からない。ほかのみんなも分からない
だろうさ。そもそも説明が下手なんだよ」

日頃、自信のない人は「A」でしょう?

無駄に自信のある人は「B」じゃないですか?

しかし、この2点には共通点があります。

それは、
「ほかのみんな」
が、自分との比較or同化対象
となっていることです。

これは、「人はみんな同じ」という思い込みが
無意識のうちに刷り込まれているという1つの表れだと
思います。

本来、他者と自分を気にする必要はないんです。

だって、「人は皆、違う」から。

だから、相手の話を聞いて、
自分の中で理解できないこと、理解が足りないことを
そのまま、質問すればいいんです。

恥ずかしがる必要はありません。

質問されたら、話していた方は、
「ああ、そこの説明が足りなかったな」
新たな学びを得ることが出来るんです。

「知らないことを素直に聞く」ということも
十分に知的な行為なんです。

互いに敬意を持って接する知的な会話というのは、
お互いにとって、新しい学びと気づきが得られる
素晴らしい行為なんです。

だから、質問は、“相手へのプレゼント”なんです。

とはいえ、世の中には
「質問」と「詰問」「尋問」「揚げ足どり」の
違いが分かっていないような人が沢山います。

謝罪会見などで見るマスコミの質問は、
ほとんどが、見出しを飾る文言を取るための
誘導尋問であることが多いです。

次回以降、その辺りについて、話を広げていきたいと
思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

また明日、お付き合いいただけますと幸いです。

お読みいただきありがとうございました。
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